三好鋭郎の講演録「歩行から言語のバリアフリーへ」
(香川県社会福祉大会、サンポート高松にて、2009年10月27日、三好鋭郎〔えつお〕)

 私は放心状態のままスクーターに乗り家を飛び出しました。23歳のときに失恋し自殺をしようと家出したものの実行できず、兄のいた東京に向けて寒風の中20数時間走り続けました。翌日父母と榊原温泉で合流、両親の勧めで「大本(おおもと)の本部」(明智光秀が本能寺に出発した亀山城跡)で修行、40数日お世話になりました。そこで読ませて頂いたのが「凡ての人は独自の使命をもって誕生する」との出口日出麿先生(出口直日三代教主のご主人)の著書に感涙、「スワニーを立派な会社にする」ことが自己の使命だと気づきました。

 四国に帰り工場に入り手袋作りに汗を流していました。ほとぼりが冷めたころ、静岡の女性との見合いの話が持ち上がりました。あまり気乗りはしなかったのですが、汽車に乗って静岡まで出かけました。彼女からは私が帰る以前に断りの返事が届いていました。しばらくして九州の女性との縁談がまいこみ、彼女が働いていた京都で見合いをしました。彼女からもしばらくして断ってきました。その次には地元の女性とつき合いましたが、先方から断られてしまいました。
 私には結婚相手がいないかも知れんなあと思い始めている時、祖父母が私にこういうのです。「会社に鎌田ヨシ子さんがいる。大変しっかりしているし、仕事がはやい上に器量がいい。お前にはすぎたお嫁さんやけど、いっぺん自分で彼女に話してみては」と。
「五体は満足ではないが、必ず君を幸せにして見せる。と元気な声でハッキリ言うんやでえ」とまで言われました。
 張り紙一枚でいくらでも社員が採れた当時、祖父が4回も彼女宅を訪れ、「父の会社で働いてほしいと懇願した」というのです。2人が死んでから祖父の並々ならぬ愛情を知り、今でも涙が出ることがあります。彼女がいなかったら今の私は存在しなかったのです。

 父の会社に入社した頃は、12月末まで生産して白鳥駅から出荷すれば、仕事がなくなり、40数名の全社員を首にして失業保険で生活してもらい、4月から殆ど全員が復帰してくれました。冬場の仕事を確保するために海外市場を開拓したい、と父に相談し快諾されました。
 私が羽田空港を飛び立ったのは、東京オリムピックが開催された1964年の10月5日で、JALのホノルル経由でサンフランシスコに着き、アメリカンエアラインに乗り替えて、24時間かけてニューヨークに着きました。
 翌朝、朝食のために表に出たのですが、英語ができないわけです。ホテルの近くを一周しまして、思い切って近所のコーヒーショップのドアー開けました。「ホットミルク、トースト、レモンティー」と元気よく注文しました。しかし全く通じません。何度くりかえしてもわかってくれません。そこえ、日本人の留学生が入ってきまして助太刀をしてくれました。「ホット・ミルク」でなく「ハット・ミーク」だし、「レモンティー」ではなくて「ティー・ウイズ・レモン」というのです。カタカナ英語はまったく通じなくて、全身が汗ビッショリになりました。何とか通訳を雇って何社かの顧客を回りましたが、ほとんど相手にされませんでした。
 巨大な英語の壁に悪戦苦闘しつつドイツに飛びました。機内に日本人がいないかと探しましたが、誰ひとり乗っていませんでした。そんな不安の中で通訳を雇って、手袋の輸入業者を探しつづけましたが、これという成果はありませんでした。

 一週間後にはイタリアに飛びました。ホテルの浴室には便器の横にもう1つの便器のようなものがありました。それに座り込んで蛇口を開けました。シュルシュルと生ぬるい水が飛び出してきたのですが、急に熱湯に変わり金の玉を焼けどしまして、数日フーフーいいました。また、お金の価値が分らず手のひらに乗せて「ご自由に」と、タクシーのドライバーに任せなければなりませんでした。レストランでは、何が出てくるのかさっぱり判りません。そんな旅行を一ヶ月続けて、どうにかこうにか世界を一周してきました。
 私が羽田に着いてタラップを降りますと、フワーと足が浮いてアスファルトに着かないのです。一種の夢遊病に罹ってしばらくぼけていましたが、いつの間にか直りました。言語、時差、食事、通貨などなど、「異文化の衝撃」に耐えられなかったのです。

 初めての世界旅行での収穫は、英会話をものにするという決断でした。すぐにNHKラジオの英会話を3年間1日も欠かさず受講しました。当時は藤後勝明先生とヘレン・レイノルズさんのコンビでした。下請けを回る車には、エンジンをかけるとケネディーの講演が流れるようにし、いっしょに大声で喋りつづけました。1時間ものの講演を数千回喋ったことになります。
 当初は手袋の輸入業社の開拓に明け暮れました。我々の手袋は先方の商売のタネですから、数回訪問すると見本注文をしてくれ、現物を見て安心すると量が増えてゆきました。
 1970頃から小売店を開拓し始めました。当時世界一の小売店だったシカゴのシアーズ社を訪問しました。ハンソンさんというバイヤーに逢いました。次々と見本をとり値段や材料名などを聞かれ、20分ほどして「よく分った次の予定があるので」と追い出されてしまいました。毎年3-4回アタックを続けましたが、3年後にはステュアート氏に代わっていました。引継ぎもしてなくいちから出直しです。情報を取るだけとられ買おうとしません。更に3年後つまり6年後には、突然にブリッジさんに代わっていました。彼は私の熱意を評価してくれ、日本に行くと約束してくれました。日本で品質や納期ならびに価格に納得され、初取引が始まりました。今も数億円の取引が続いています。

 危ない経験もしました。ニューヨークのホテルで寝ていると、12時過ぎに誰かが私の部屋をノックするのです。心配しながら鎖を外して少しドアーを開けると、黒人の女性が立っていました。「私は前の部屋に泊まっている客で、鍵を室内に閉め込んでしまったので、電話を貸して欲しい」というのです。私は「フロントに行きなさい」といいドアーを閉めようとしました。すると大変な力で押し開けようとするのです。私は全身の力を振り絞って押し返しました。もし開けられていると何人もが入ってきて電話線を切られ、トラベラチェックにサインさせられ、逃げてしまうといわれています。お金がないと命が危ないわけです。その他いろんな経験をしつつ、地球を百周して数十社の顧客を開拓してきました。

エムバイヤービル NY市タイムズスクェアー ハンブルグのアルスター湖
エムバイヤービル NY市タイムズスクェアー ハンブルグのアルスター湖

 1972年には韓国に進出して生産していたのですが、十数年過ぎると価格競争に負けだし、年率30%の勢いで中国にとられはじめました。絶妙のタイミングで百十四銀行の故三野頭取に中国銀行を紹介頂き、1984年の2月から毎月一週間訪中し、蘇洲市と上海の中間の昆山市と合弁交渉を続けました。江蘇省で外資1号の投資交渉が4週間続いて、63条約の合弁契約にこぎつけました。ひとことで言えば、社会主義思想と資本主義思想の衝突を、忍耐に忍耐を重ねて聞きに徹する一方で、すべき主張は堂々と押し切り、一歩一歩乗り越えて5月に合弁交渉を締結しました。
 400名の社員の採用に数千名の応募があり、いい人材が採用できたのはいいのですが、日本語のできる幹部候補生が一人もいません。毎月訪中の度に市長が招待してくれるので、「日本語科を出た青年を紹介してほしい」と頼みつづけました。「わかった。わかった」と言いながら、何度頼んでもらちがあきません。通訳によると700名の市の職員中、大卒は7-8人しかいないと聞き諦めました。
 中国製の材料を探して香港南部の東莞市に行きました。そこで、日本の靴下や造花工場を訪ねたおり、日本語のできる青年が何人も働いていました。人民日報に広告すると人材がいくらでも採れるというのです。その8割は旧満州の東北3省からで、80時間も汽車に揺られてやってくるというのです。
 その足で、上海経由でロシアに近いハルピンに飛びました。数台しかなかった座席の底に穴が開いたタクシーを奪い合いして確保し、ハルピン工業大学、師範大学、科学技術大学、医科大学に飛び込み、順次日本語学部長に逢っていきました。「日本からの求人は初めてだ」と一様に驚いていました。3つの大学の日本語学部長が、職員に聞こえないように私にすり寄ってきて、「社長、学生もいいけど私ではいかがでしょう」と・・・。びっくり仰天しました。
 現場経験の必要性を説いて諦めてもらい、ハルピン工業大学の日本語学部長に黒龍江新聞社に同行してもらい、彼の翻訳で求人広告をしました。1ヶ月もしない内に55名の応募があり、21名を書類選考して再びハルピンに飛びました。その中の「日・中・韓・英」の言葉ができる高さんを採用し、残りの20名の知人を探し歩いてもらい、それぞれに4-5名からの人物評価を聞きだし、報告書にして送るよう頼みました。高さんは人口5千万もの国龍江省を駆け巡り、40日後には詳細な報告書が送られてきました。私は3度目にハルピンに飛びました。8名を缶詰にして面接や協議を続け5名を採用しました。その内から中国スワニーの社長が誕生し、2名の副社長が生まれています。

 日本から5人の幹部を送り込み、400人を採用して中国スワニーが稼動しました。私どもは江蘇省で最初の外資企業でして、珍しさもあって一生懸命に働いてくれました。しかし、全員が同じ月給でしたから、頑張っても遊んでいても給料は変わりません。半年もしないうちに、手袋の材料を敷いて昼寝をするようになりました。私が訪中しますと「どこのオッサンかなあ」という対応でした。恐ろしい事態におちいって、予想通り一年目は大赤字でした。
 昆山市の役人さん十数人を相手に、決死の取締役会が行われました。まさに関が原の戦いでした。私の要求は、「黒字になるまで、日本側に任せる」「歩合給制を導入する」「昼寝組の百人を解雇する」というものでした。最初の2項目は2日間で解決しましたが、百名の解雇で暗礁に乗りあげました。合弁契約には「解雇も可能」とありながら、中国側の会長は真っ赤になって机を叩き「中国には中国の常識がある」と私を怒鳴りつけました。即座に「中国の常識は世界の非常識だというのを知らんのか」と怒鳴りかえしました。
 私の意気込みに恐れをなし黙ってしまいました。彼らは別室で協議してきて「社長、50人になりませんか」と懇願されました。私は帳面をヒックリ返して「働かない者は、1人たりともいらない」と声を張り上げました。何時間もスッタモンダを重ね、お互いの要求の中間75人で手を打ちました。
 給料の半分が歩合給となり、努力すれば2割ほど給料が増えることを知った社員達は、多くが1時間も早い7時からでてきて頑張りはじめ、2年目で赤字を取り返して軌道にのりました。

左から2人目が故三野頭取 合弁契約締結 現在の中国スワニー
左から2人目が故三野頭取 合弁契約締結 現在の中国スワニー

ウォーキングバッグ発明
 1990年頃のバブルの崩壊とともに、温暖化・暖房完備・自動車文明によって、手袋業界の売上が減りはじめ、約6割に落ち込んでいます。1992年に戦略会議を立ち上げ、ネクタイ・帽子・作業手袋の調査を始めました。1年後にはそれらの業界が過当競争の真っただ中にあり、参入しても勝てる要素が無いことがわかりました。

 3度目のニューヨーク訪問で、エムバイヤーステートビルの南通りで鞄屋さんの「ガラード」を見つけ、70mmもある車輪付きトランクに飛びつきました。私は足が悪いものですから、手袋を満載したカバンを持ち歩くのが大変でしたが、そのトランクのお陰で世界行脚が可能となったのです。

 ホテルに着くと見本を放りだし、市場調査や食事まで空のトランクにもたれて歩きました。この舞台に出てきたように体を支えてくれるのです。ただ、お見掛けどおり黒くて異様ですから爆弾でも入ってないかと疑われ、世界中で百貨店の守衛に「中を見せろ」と言われ「空っぽやないか」といわれ続けました。トランクはタクシーへの乗車や階段で困りはて、小型カバンに四輪をつけて把手を引き上げたら、体が支えられるのではないかと思うようになりました。

 小型カバンと杖を合体させる事業への挑戦です。引き上げた握りが、カバンの中央に寄せる方法がないものかと悩みつづけ、寝付けないほど考えつつ実験を繰りかえしました。1996年の10月に上海のホテルで寝ていました。夜明けになって「パイプをカーブさせよ」という天からのお告げを頂きました。「やった」と思い成功を確信しました。それがこのウォーキングバッグです。このようにパイプが半径3mで湾曲していて、握りがカバンの中央に寄ってきています。

 年に10万個ほど出荷させて頂いておりますが、毎年6000通も届くアンケート葉書では、「点字ブロックに引っかかる・大きく静かな車輪にして欲しい」という要望が圧倒的に多いのです。車輪が滑らかに回らないと、ツンノメリ感を感じるわけです。車輪には数千万円投入して7代目となり、直径60mmにして騒音を半減させ、世界でも最高水準のものを出荷し始めています。
 化粧品・財布・携帯などを入れる「ハンドバッグにもたれて歩きたい」という要望が沢山届いています。これが「支えるハンドバック」でございます。杖革命につながる可能性を感じています。 

左から2人目が故三野頭取 合弁契約締結 現在の中国スワニー

 「一つの神、一つの世界、一つの言葉」が「おおもと」のスローガンです。
 一つの神とは凡ての宗教が仲良くする活動で、一般には「宗際化活動」といいます。100年近い歴史がありずいぶん実ってきています。
 一つの世界とは「世界連邦運動」といい、終戦直後から始まった運動です。アインシュタインが提唱したもので、いわば世界をEU化するということです。
 一つの言葉とは、凡ての民族に中立、公正、平等で、簡単に学べるという「エスペラント運動」です。自国語を守りつつ国際間でエスペラントを使おうということです。この理想が実現しないと、世界平和はおとずれないと言われています。

 エスペラントは1887にポーランドの眼科医ザメンホフが、欧州言語を劇的に改良した言葉です。発音記号や例外がなく、文法は16ヵ条に整理され、規則的な綴りですから、英語の1/5の労力で習えます。大半の単語には欧州語を採用しているため、西洋人は英語の1/10で習えるといわれます。
 I love youはMi amas vin(ミー・アーマス・ヴィン)、アクセントは後から2番目の母音です。
 Amisは「愛してました」で、Amas「愛しています」で、Amosは「愛するでしょう」となり、Amusは仮定形でAmuは命令形です。Ameは副詞でAmaが形容詞で、最後がoだと名詞でAmo「アーモ」です。
 名詞を動詞化したり、動詞を副詞化したり、形容詞を命令形にするのも自由自在で、Grupo、Pikniko、Hoteloなど6-7割はラテン系の単語です。

 だいぶ前のことですが「黒猫ヤマト」の社長さんは、大手新聞に全面広告を出しました。多くの日本人が制限の多い運輸行政のことを知り、ヤマトの社長さんに声援をおくりました。結果、自由化に追い込まれ、運賃は大幅に下がり配達期間が半減し、日本経済は強い競争力をつけました。その例に学び、私はEU諸国で全面広告を開始することを決意しました。

 妻の了解を得て老後のための貯金と娘婿の支援を得て、2002年にデンマークの「ベルリンスケ・ティルデンデ」に掲載しました。各国の「エスペラント協会」、「世界エスペラント協会」(UEA)や「欧州エスペラント連盟」(EEU)の支援を得てのことです。次にベルギー、イタリア、フランスの「ル・モンド」へと続き、東欧8ヶ国が終わると資金が尽きてしまいました。幸運にも「ウォーキングバッグ」が売れ始め、その収益の一部を広告に支出できることが、取締役会で決議されました。

 新渡戸稲造が国際連盟の事務次長だったおりの1921年、プラハでの第13回世界エスペラント大会に出席し、通訳がいらない数千人の大会に心酔しました。国際語が英語になってもフランス語でも不公平が生じ、エスペラントが真の世界平和に欠かせないと確信しました。彼による強力な説得活動が展開され、加盟国45ヶ国が義務教育でエスペラントを教えることを決議させました。しかし「フランス語が世界の共通語だ」と主張する同国の拒否権によって決議は葬られました。もしフランスが拒否してなかったら、今は自国語とエスペラントの2言語の世界になっていたのです。

 2006年、英語が世界共通語になると確信した英国政府は、「英国の国民は外国語を習わなくていい」と発表しました。ブリュッセルで国際機関が沢山の求人広告を出していますが、英語ができるのが絶対条件ですが、その下に「お母さんから学んだ英語に限る」と小さく書かれています。これが完全な人種差別だと問題になっています。

 2006年の日経新聞には、堺屋太一さんの「ジンギスハン」が連載されました。20万の大群を万里の長城の一点に集結し、3日間で5メートル幅の道を開け一気に中国を征服しました。歴史に学び、最も英語嫌いのフランスの一流紙「ル・モンド」に集中しました。ただUEAやEEUの会長やフランスエスペラント会と交渉を続けましたが、なかなからちがあきませんでした。昨年は彼らを説得するためにブリュセルにとんぼ返りしました。また、今春にはフランスの協力が得られなくなり、パリに飛びル・モンド社と直接口座を開いてきました。結局一枚の広告に一年かかっています。

 手元のコピーは、2009年9月の26日「欧州言語の日」の「ル・モンド」の広告です。

左から2人目が故三野頭取 合弁契約締結 現在の中国スワニー
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 上の右からフランスのマヨーレン、イスラエルのマーヤ、クロアチアのズドラブカ君とティナちゃんです。「エスペランティストの国際結婚によって生まれた数千人は、生まれながらエスペラントと現地語を自由自在に話し、エスペラント文化を発信しています」となっています。

 太字のタイトルは、「欧州は英米語の支配に屈服しています」と「グリン報告」で、「EU諸国の70万の青年が毎年英国に留学し英語を習っています。その費用は約2兆億円にのぼる」という、ジュネーブ大学教授の調査報告です。

 サブタイトルは、「そのコストは数兆円にのぼります。一世紀前、国際連盟でフランスが拒否権を発動したためにエスペラントが拒否され、今も引き続き払い続けています。貴方たちがエスペラントを習い始めるまで・・・」と書かれています。英国の言語学者フィリプソン氏のホームページで「このまま英語化すれば、不公平極まりない世界になる」と警告しています。

 その下はエスペラントで書かれています。「Esperanto Lerneblas Rapide Kaj Facile」(エスペラント・レルネブラス・ラピーデ・カイ・ファッツィーレ)と読みますが、意味は「エスペラントは早く簡単に学べます」です。エスペラントのRapideはフランス語ではRapidamentで、FacileはFacilamentです。日本語を含む数十ヶ国語で、エスペラントが習えるホームページのアドレスです。

 その下は、「文法上の例外や複雑性が排除され、英語より10倍も早く習えます」です。

 一番下は、「エスペラントは百年以上使われており、文学的にもとても豊富な言語です」と書かれ、エスペラントの百科事典のホームページアドレスです。

 中央の美女は、ポーランドのエスペランティストのEU議員、マルガレータ・ハンズリック女史です。

 私が登場し、「広告主スワニーの社長三好鋭郎は、小児麻痺で右足が悪く言語障壁にも悩んでいます。車いす代りにウォーキングバッグで体を支えつつ世界を行脚していますが、エスペラントなしに自由に話しあいできません」と訴求しています。ホームページで講演録「不可能を可能にする」が、フランス語で読めるようになっています。

 2004年の9月25日、ポーランドの「ゼッツポスポリータ」紙に広告を出しました。その日、ワルシャワの「ビクトリアホテル」で昼食討論会を開催しました。招待者は欧州議会の議員さんたちで、ゲレメック教授〔元ポーランド外務大臣・EU議会副議長。欧州自由民主同盟党首(EU議会第三党) 〕も参加される予定でした。彼は8月31日の夜、個人的に私と逢ってもいいと約束してくれましたが、直前になってキャンセルされたのです。その後に聞いたのですが、エスペラントは英語に勝てないと思い、気が変わったとのことでした。しかし2008年の「ル・モンド」の広告を見て、再びエスペラントに挑戦する気になったと言われます。すぐに784名のEU議員を「エスペラントは多言語主義の敵か味方か」と題する討論会に招待しています。
 彼の主張は、「大部分のEU議員が英語の支配に反対していて、欧州議会はエスペラントについて全く無知であり、侮りがたいほど誤解している」でした。ゲレメック教授の重要な遺言(討論会の前日に交通事故で他界)は、私たちにいっそうの努力を要請しています。彼の遺言を広く世に伝えることが、欧州の転換点になるでしょう。欧州連合をひっくり返すことが、故ゲレメック教授への恩返しです。

 我々の活動は氷山にたとえられます。海面には僅か10%しか出ていません。沈んでいる中に大半の非英語国民の不満が鬱積しています。さらに何の議論もせずEUの英語化がすすんでいます。私はたった13%に満たない英国の言葉が、全EUで受け入れられないと思います。世界エスペラント協会の会長だったロンドン大学のウエルズ教授は、「ある日突然にベルリンの壁が崩壊したように言語の壁が崩れるでしょう」と述べています。それは同時に世界の言語革命につながっています。
 EU諸国のお金は「ユーロー」となり、特許も共通化し、リスボン条約によって国家機能を整えつつあります。しかし、EUの国歌ヴェートゥベン第九は、共通語の23ヶ国語では歌うことができません。

 言語問題はEUのノドの刺さったトゲだと言えます。欧州エスペラント連盟は、「第九をエスペラントで歌おう」という運動を展開しています。


 最後に、私の座右の書で出口日出麿先生著の『生きがいの探求』を紹介させて頂きます。
 この著書は1974年にニューヨークの東京書店で買ったものです。私の「座右の書」をアメリカで発見して驚いて購入したものです。百回以上拝読しましたのでバラバラになりそうです。当時70万部売れたベストセラーになりました。「自己反省の重要性」を繰り返しくりかえし説かれ、「平和への道筋」を示し、「世を動かすのはお金や物ではなく、こころ即ち精神、精神即ち魂について、そして神とは何ぞや」との疑問に応えておられます。

 日出麿先生が京大生だった1923年、「同志社大学でエスペラントの講習会がある」という新聞記事を、当時の大本の教祖だった出口王仁三郎師に渡され、直ちに大本にエスペラントが採用され普及活動が始まりました。先生は大本の教えに心酔し京都大学を中退、後に教祖の長女三代教主直日先生とご結婚され教団の先頭に立たれました。大本がエスペラントを採用したのと、新渡戸さんの国際連盟加盟国の説得時期と重なっていることが不思議です。

 「反省することは、真に"知る"唯一の手段である。内に省み外に省み、ここにはじめて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。永久に同一世界にうごめいているだけである」と書かれています。
 私は親父以外の他人に使われたことがありません。そのために社員の気持ちが理解できず、ずいぶんと部下を苦しめてきました。ただ、この著書を読ませて頂いている時だけ、「あれも悪かった。これも悪かった」と気づかせて頂きました。しかし、なかなか謝ることができません。海外からの絵葉書で何度も謝ってきましたが、自分の欠点がなかなか直らないのが実情でございます。とてつもない大きいことを考える一方で、皆様の前に立つ資格のない人間でもあります。

 ここで「結婚・恋愛・家庭」についてです。
 「青春の子弟が性に悩むという心理状態に、私はひじょうに同情する。・・・それはなんといっても、生理上、平衡を失しているために、いかに意思の強い人でも、多少の悪影響を心身にうけているのである。・・・このことは青年教育の上に、一段の注意を払うべきことであって、識者も、もうすこし真面目に根本的に考えるべきではないかと思う。青年期に達した男女は、ドシドシ結婚させるということよりほかによい方法はないと思う。・・・早くから家庭じみるのはいやだとか考える人もあろうが、これは一応の理屈にすぎない。人間の結婚期というのは、自然的にみてどうしても男なら20歳前後、女なら17-18歳である。・・・考えが大人なみになるということは、それから後でもよろしい。肉体の生育には限りがあるが、いつまで待ったところで、思想の成熟にはかぎりはないのである」(112頁)

 次に平和についてです。
 「武力というものは、それ自身の本質において強いることを意味している。人間の思想というものを一時的に、力によって抑圧しようなどと試みることほど目先のみえぬことはない。思想を匡正し誘導するものは、また思想のみである。(120頁)」

 「接触しては戦い、戦っては和し、和しては考え、と、いくたびとなくくりかえしてきた今日でさえも、なおも悟りきれずに、少数者の利害のために、多数の安寧幸福を脅かしているのである。これをみても、いかに人間というものが利己心の強い、ものの悟りの悪いものであるかということがわかるであろう」(128頁)

 1945年終戦の8月9日、日ソ不可侵条約を破って160万のソ連軍が満州の開拓団に襲いかかりました。70万もの男性はシベリアに拉致され、奴隷のごとくこき使われました。私の近所の同級生に今西くんがいます。彼の父は松林の伐採にかりだされました。切り株の上に松葉を乗せ斧の後で叩いてドロドロにし、毎日下痢しない程度食べて飢餓から救われ帰国できました。1割強が「空腹と寒さと過労」で亡くなり帰国していません。
 残された百万近い女性やこどもは、ソ連軍にめちゃくちゃにされました。数千キロにおよぶ逃避行を続けて福岡港や舞鶴港にたどりつきましたが、彼女たちは性病の検査を受け、妊娠者の堕胎手術が断続的に行われました。焼け野が原の日本には一滴の麻酔薬もありませんでした。そのうち15万人近くが帰国できていません。

 再び日出麿先生のお言葉です。「年少子弟の頭の中に、まず、これまでの人類の苦悩と流血との歴史が、かくも膨大であったということを、よくしみこませてやるべきである。そして人間は、今までこんなに馬鹿げた骨折りをつづけてきて、やっと今、戦争はいやなものだと悟りかけているのだ、ということを訓えるべきである」(129頁)

 解決案です。「甲の敵は乙の友 乙の仇は丙の味方 甲、乙、丙、丁・・・みな神の子 敵を許せよ 身を捨てあえよ。(242頁)」

 キリストは「非戦、非軍事、非暴力、無抵抗」を勧めていて、ガンジーは「非暴力、非服従」によって大英帝国を追い出しました。コスタリカは憲法どおり軍備を全廃し、どこからも攻められていません。

 日本は、キリストやガンジーに学び、軍備全廃をすすめて非武装中立の模範国をめざし、世界平和に貢献して欲しいと願うものであります。日本が保有している戦車は1,070輌、戦闘機997機、戦艦77隻です。平和憲法を誇る日本が世界第5位の年間4兆7000億円の軍事予算を割いています。抑止力の名のもとに軍事力で対抗することが日本民族の正しい選択でしょうか?

 ここで「神というもの」への回答です。「天地万物は関連し統一されている。しかも、絶えず動いている。いかに動き、いかに変化しても、やはり相関連しており、渾然として統一されている。複雑微妙な統一体が、偶然にできあがるものではない。これは、絶大なる統一意思がはたらきかけているからである。この絶大なる意思の所有者を「神」という」(137頁)

 大本の出口紅五代教主は、「エスペラント運動は人類の永遠に幸福につながる大切な活動です。短期間で実現するのは難しいでしょぅが、あきらめずに努力を続けなれればなりません。世の中には不可能と思わることが、突然に実現することも事実です」と述べられています。わたし達の求めているものは世界の平和です。そのうちに第2第3のゲレメックが現れ、想像以上に早く言語革命が実現するかもしれません。エスペラントはさまざまな宗教、肌の色の違い、多様な文化の架け橋になりうるでしょう。

 最後に私の熱愛する詩を読ませて頂きます。(19頁)

"なせ、省みよ、悟れ"
これが、霊魂を進歩させる上にとっての唯一のモットーだ。

精神上の変化は、かならず、物質上の変化を伴う。
これは微細なことにもおよぶ。

間断なく望み
間断なく為し
間断なく省み
間断なく悟れ!
そしてまた新しく望み、為し、省み、悟れ!
かくて極まりなからんとき
社会の向上せざるは
省み悟ること少なく
同一の愚事に執着することによる

そうだ進まねばならぬ、まっしぐらに
河があろうが、山があろうが、地震だろうが火事だろうが
そうだ、おれは進まねばならぬ
泣き泣きでも、歯を食いしばってでも
元気に愉快に感謝にみちて
毎日毎日、時々刻々、おれの魂がなくなってしまうまでは
ドンドン進むよりほかにはない
雨が降っても風が吹いても
たとえこの世がこわれてしまっても
おれがある限りおれは進もう。

故出口日出麿師 講談社「生きがいの探求」 ガンジー
故出口日出麿師 講談社「生きがいの探求」 ガンジー