「引っ張る」から「支える」へ。自らの経験を活かして生まれた「スワニーバッグ」開発秘話
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序章 続々と届く声に支えられて

「私は87歳です。これで3台目ですが、スワニーが無ければ歩くことができません。感謝感謝の日々でございます」(横浜市・K様)

「前でカバンを引いている人が急停車し、おもいっきりぶつかった経験から、スワニーの体の横で押すバッグに病み付きとなってしまいました」(大田区・H様)

「杖をつくのが恥ずかしいから出不精になっていたのですが、今は散歩に行くのが楽しみでたまりません」(京都市・R様)

「駐車場からお店やトイレまで歩くのが大変でしたが、スワニーのお陰で大いに助かっています」(前橋市・M様)

「体の横で押せるので、とても楽な上に平衡感覚がとりやすく、目まいがする私にとってとても重宝しています」(町田市・N様)

 当社には毎日、たくさんの封書やハガキが届きます。それらの手紙は「スワニーバッグ」をご購入いただいたお客さまからのもの。現在では年間6千通を超えるお便りをいただいています。

 今ではスワニーという企業のひとつの柱となっている「スワニーバッグ」。当社が発売を開始したのは1997年のことです。以来、多くの方に愛用していただいている、このスワニーバッグが生まれた背景には、私自身が30年以上にもわたって抱いていた思いがありました―。


支えるバッグへの思い

 1939年、私は香川県の東端に位置する白鳥町(現在は東かがわ市)で誕生しました。生後6ヵ月ごろ、高熱を出し右足の力が入らなくなりました。医師の診断は小児麻痺。以来、右足が不自由となりました。

 父母は、片足が不自由な私のことを「6人兄弟の中でも就職が難しい」と常に心配していたようです。1958年に地元の高校を卒業すると、株式会社スワニーの前身である三好繊維工業株式会社に入社しました。明治時代から手袋の町である白鳥に1936年に父が個人創業した同社では、主に防寒用手袋の裁断を行っていました。毎年春から秋まで生産した商品を冬に販売するため、正月から春までは仕事がなくなります。材料代などの資金も続かないため、年内に全社員に辞めてもらい、失業保険で生活。また大半が4月になると復帰するという状態でした。そのような厳しい状況が続くことを案じた私は、何年も思い悩み、日本よりも寒い米国や欧州に販売してはどうかという考えに至りました。足が不自由なうえに英語も全くできませんでしたが、私には「父の会社を立派な企業にしたい。それが私の使命だ」という強い思いがありました。その熱意に動かされるようにして、1964年、日本中が東京オリンピックに沸き立つ最中に単身、ニューヨークへ飛び立ったのです。

 多くのサンプルを旅行カバンに入れての海外旅行は思いのほか困難でした。今では古い映画の中でしか見ることがなくなりましたが、当時の旅行カバンといえば四角いトランクがほとんど。多くの荷物を詰め込むと25㎏にもなりますので、それを提げて移動するのはとても骨が折れたのです。しかし、エンパイヤステイトビル南側の鞄屋さんで「75㎜の車輪付きトランク」を見つけたことから、私の出張スタイルが変わりました。すぐに購入し、トランクいっぱいにサンプルや身の回り品を押し込みました。それからは、空港、街角、駅などあらゆるところでトランクが私を支え続けてくれるようになりました。車輪のついたトランクが私の世界行脚を可能にしてくれたのです。

 ただし、快適な車輪付トランクにも問題点はありました。市場調査や食事の際は、トランクの中身を空にして支えとして持ち歩くのですが、それでも重くて大きく、階段やタクシーの乗降に困り果てました。「中を見せろ」と百貨店の守衛に迫られ「空っぽじゃないか」といわれ続けました。空港ではトランクを預けると、広い空港内を移動する際に体を支えるものがなくなりました。「このトランクを機内サイズにして、伸び縮みする取っ手をつけることができれば“動く手すり”として使えるのではないか」それから30年以上、私は体を支えられる鞄を模索しつつ歩くようになりました。


99%の努力と1%のひらめきで

 ニューヨークに単身降り立ってから、30年の時が流れようとしていました。バブルが崩壊し、温暖化、暖房化、自動車文明によって手袋の需要はそれまでの6割まで落ち込みました。年中商品の開発が命題となるなか、スワニーでは1992年に戦略会議を立ち上げ、ネクタイ、帽子、作業手袋の調査を始めました。しかし、いずれも過当競争のまっただ中にあり、勝てる要素がないことが分かりました。

 そんな折、私の弟でスワニーの専務であった三好朝男から、私がアメリカで買ったファイバー製のトランクの製造はどうかと提案がありました。そこで見よう見まねで試作品をつくったものの素人集団のままごとでしかなく、見事に失敗しました。それをきっかけに、私自身が長年欲しいと思っていた「身体を支えるバッグ」に挑戦することになったのです。

 1995年から「支えられる」バッグの試作がはじまりました。こだわったのは、「体を支えた時に倒れない、安定した取っ手」と「自由自在に動く車輪」でしたが、これがなかなか解決できない課題となりました。最初は取っ手を鞄の中央に付けたものを発売しました。二部屋に割れて薄いものしか入らなかったことからほとんど売れなかったものの、このように体が支えられるバッグが欲しかった、というお客さまの反響が糧となりました。バッグいっぱいの大きいものが入って、しかも「支えられるバッグ」を目指して探求を続けました。取っ手が鞄の中央にないと体を支えられない、しかし中央に取っ手を付けるとバッグとしての機能が成り立たない・・・。1年以上もの間、悩みつつ試作を続けましたがなかなかいいアイデアが浮かばずにいたのです。

 1996年10月、上海出張の折でした。商品開発のための議論を重ね、クタクタになってホテルで眠りについた明け方、突如「パイプを湾曲させればいい」と脳裏にひらめきが走りました。私は飛び起きて持ち歩いていた設計用紙にペンを走らせました。取っ手を支えるパイプが、鞄の側面に半径3mでカーブさせると、引き出した時にちょうど取っ手が中央により、体を支えつつ楽々と歩けるようになるはずだと、私は確信を持ちました。そして、台湾や中国の取っ手メーカーを数十回往復し、試作を重ね、完成したのが「スワニーバッグ」でした。こうして、30年以上前に思い描いた「動く手すり」のようなバッグが生まれたのです。

 それまでは、引っ張って持ち歩いていたキャリーバッグを女性でも高齢者でも「体の横で押せる」ようにするというのは、世界のトレンドまで変える発明でした。エジソンが「発明は99%の努力と1%のひらめきだ」との言葉を残していますが、まさにそのとおり。ひらめきによって、それまでの努力が報われた瞬間でした。


販売戦略を模索した日々

 ひらめきによって、私自身が何十年も欲していた「支える」バッグができたことを喜ぶと同時に販売の難しさに直面しました。製品化したもののその後3年間売上が伸びなかったのです。私が最も苦しんだのは、健常者である6名の幹部には身障者のニーズが信じてもらえず、毎月の会議でバッグ事業からの撤退を迫られたことでした。倒産しないかと心配するがゆえの撤退要求に強く反発することもできず、孤独と忍従に追い詰められました。実際、私も各地で営業を続けましたが、バッグを専門に扱う店舗中心だったため、障害者のニーズに理解を示してくれるバイヤーは一割もいませんでした。

 売れないバッグの開発や販路開拓のために、毎年数千万円もつぎ込む私に対して「社長の個人マネーでやってほしい」という声も聞かれはじめました。累積赤字が4億円に達した2000年9月には、撤退か継続かの選択を迫られました。鞄事業を断念するか否か、悩んだ挙句、それでも「近く大衆に理解される」との思いが消えない私は一晩悩みぬいた揚句、清水の舞台から飛ぶ決意をしました。「翌月の会議で反対する幹部は全員辞めてもらい、若手を抜擢する」と。そのかわりに起死回生の案として、私自身がスワニーバッグに支えられている大きな写真を載せたA5サイズのタグへと付け替えたのです。 「小児麻痺の後遺症に悩む私は、地球を百周しつつ鞄を軽くしたいと思い続け、ついにもたれて歩ける鞄を完成させました。手袋のスワニー社長 三好鋭郎」。すると、小売店でお客様が目を向けてくれるようになりました。通販会社は開発ドラマを制作し、消費者へ訴求してくれるようになりました。台湾のカバンメーカーから供給を受けるようになり競争力がついたことも幸いしました。さらに淡路花博に500本のスワニーバッグを提供し、無料貸出を行い認知が広がったことや、日経新聞の全国版に紹介されたり、全国TVの番組で放映されたりしたのも影響しました。その年の秋には、初めて売上目標を達成。もちろん幹部の退職勧告は不要になり、反対の声も静まりました。

 当時、バッグ部門のトップであり、現在はスワニーアメリカのトップである井清氏は「まさしく土壇場で神風が吹いたのかも知れません」と振り返っています。現在は売上の25%をバッグが占めるようになり、持続可能性の高い事業になってきました。


最高水準のバッグを求め続けて

 社内での理解も得られ、売り上げも徐々に伸びていたものの、まだまだ課題はありました。そのひとつがキャスターの品質でした。まず車輪の回転が悪くて重量を軽くすることがむずかしかったのです。どうしたものかと悩んでいた2003年、東京ビックサイトの「国際福祉機器展」で前輪の中央にベアリングを一個装着した車いすを発見しました。それを見た瞬間に、「コストと重量が半減」できるとひらめいたのです。1年試作を繰り返し、よく回り、軽いキャスターが完成しました。

 しかし今度はキャスターに必要な方向転換部がスムーズに回らず、振動によってかなり大きな音を立ててしまいます。この改良が次の課題でした。

 お客さまからは「住宅街では恥ずかしくて鞄を持ち上げて歩いている。喧しい騒音を何とかしてほしい」との要望がひっきりなしに届き、頭を抱えるものの解決策が見つからず、夜も眠れないほどでした。そこで2004年、意を決してキャスターのトップメーカーのハンマーキャスター株式会社を訪問、吉田社長に「数年間頑張ってみたのですが、静かでよく滑るキャスターが自力では開発できません。ご指導をよろしくお願いします」と真摯に懇願しました。吉田社長はすぐに数人の技術者を招集し「潤滑油入りのベアリングを横に寝させて方向転換部に装着することで静かになる」ことを教えてくれました。横に寝させるとベアリングの耐荷重力が3割ほど弱るため、その補強システムやその他が特許となりました。理想的なキャスター開発のため、私は毎月上海に飛び約百往復しました。8年の歳月と数千万円の投資を続け、夢のように静かに回わるキャスターが完成しました。スワニーバッグの8代目キャスターとして、車軸と方向転換部を油入りの8個のベアリングで支える、世界でも最高水準の直径60㎜キャスターが誕生したのです。

 キャスターの改良と並行して、2003年より取り組んだのがバッグ部分を取り外せる構造にすることでした。そこで、台座部分のベースに取っ手とキャスターを装着し、まずハード部分を完成品に仕上げました。バッグをつけなくても押せるいわば4輪杖の状態です。フレームとバッグを別々に生産すると大きなメリットがありました。一般的にキャスター付きバッグは、バッグの縫製後にフレームを挿入し、背面にはハンドル用のパイプを装着して、底面にキャスターを鋲止めして完成します。その構造では工程や部品が多いためハンドルや車輪の故障の原因が増え、コスト高の大きな要因となっていたのです。そこで私が考えたのが、車輪やハンドル付きの台座に、バッグを乗せられる構造でした。

 試作品を社内で披露すると「パイプが丸見えで、売り物にはならない」との辛辣な反応が返ってきました。しかしこのタイプであれば、従来品よりも軽量ですし、簡単にバッグとベースが分離できるので、汚れた車輪つきベースだけが玄関に残せます。ドライバー1本を使い自分で車輪を交換できるようにすることで、お客さまの悩みを解消しました。

 あきらめずに開発を続け、発売したところ、思いがけないほどの支持をいただきました。着想から10年経つ今では、スワニーバッグの90%がこの方式に移行しています。

「取り外せばバッグとして持ち運べ、汚れた車輪は玄関のすみに置けます。とても素敵なバッグをみつけました」(横浜市・K様)

「最初はテレビショッピングで買い、何度車輪を取り替えたことか!それほど毎日愛用しています。今回は違うタイプを購入し3台目です。何人ものお友達に紹介しています。」(大阪市・K様)

「車輪が大きく抜群の滑りです。さらに自分でキャスターが交換できることで、このバッグを購入しました」(松阪市・T様)

「軽量で丈夫なことと、キャスターとバッグが取り換えられる機能に惚れ込みましたま」(金沢市・M様)

「鞄を取り外して部屋に持ち込めます。大満足しています。若者向けをドンドン出してくださいね」(名古屋市・S様)


年間6千通のお客さまの声に支えられ

 音の静かなキャスターを生む原動力となったのもお客さまからの声でしたが、年間6千通にも上るお客さまからの手紙によって、新しい発想に気づき、改善点が明確になることが多々あります。開発チームが克明にパソコン入力したアンケート葉書は、その情報を分析しつつ、ご要望の多い順に開発を進めていく貴重な情報とさせていただいています。

 私は常々[アンケートはがきからコミュニケーションがはじまる]と考えており、そのすべてに目を通しています。また、返事が必要なものは担当者から3日以内にご返事を出すことがスワニーのゴールデンルールですが、私にしか答えられないものも多く、私自身が筆をとり、ご返信しています。さらにいいご提案があれば、お礼の言葉をしたためるようにしています。そのようなやりとりの中から、「上京された折には、ぜひ食事にご招待したい」とお誘いをいただくこともあります。

 手紙を寄せてくださるお客さまの約8割は60代70代の女性で、その多くがいつまでもお洒落をして外出したいと思っておられます。2008年には「化粧品、手帳、携帯などを入れる“支える”ハンドバッグがほしい」という要望が何人ものお客さまから届きました。そこで、パイプ内の精密部品の小型化に苦心しつつも、バッグを小さくするために三段把手を四段にして、小型部品の開発に全力投球しました。発売後、「支えるハンドバッグ」は、予想以上に売れています。スワニーバッグの革命児となる可能性さえ感じる「支えるハンドバッグ」ですが、このアイデアは、お客さまのご意見がなければ実現することはなかったでしょう。

 次々と新製品を生み出すことができるのも、お客さまとの良好な意思疎通の機会があってこそ。お客さまから届く手紙一通一通に感謝する次第です。

「コインロッカーの入らず困ったことがあります。ハンドバッグサイズを使うようになり、心底から満足しています」(名古屋市・K様)

「ハンドバッグ代わりに一番小さいサイズを購入し、音楽会やお呼ばれに使わせてもらい、今では家族の一員となりました」(豊田市・W様)

「廊下に手摺がなく、トイレや風呂まで歩くのに大変に重宝しています。一番小サイズが私の足のお友達になりました」(高松市・S様)

「カラーもデザインも気に入りました。さらに、信じられないほどよく走ってくれる支えるハンドバッグは他にありません」(静岡市・A様)

「歳を取るとバッグが重くなります。一番小さいのがとてもお気に入りです」(板橋区・M様)


社員をはじめ周囲の理解と熱意の賜物

 私自身の体験から生まれた「スワニーバッグ」ですが、社員一人ひとりの理解と熱意がなければ、ここまで多くの信頼は得られなかったでしょう。

 私が60歳に近づいた1998年、自宅の玄関やトイレに手すりをつけようとした時のことです。仕事から帰ると手すりが少し違うところについていました。妻によると「見た目を考えてここにした」というのですが、外見よりも使い勝手が何より大切です。そこでちょっとした口論になり、妻がいった「あなたの跡継ぎは、足が悪い人でないとできないでしょうね」という言葉に、気づかされました。どんなに理解していても、実際に足が悪い者でなければ本当の意味では分からない。そこで障害者の雇用を決意しました。

 ハローワークで募集したのは「杖をつく障害者の開発マン」でした。応募者のなかに交通事故で股関節を痛めたBさんがいました。建設関連に長く従事しCADの操作技術を持つ彼は障害を伏せて働いていましたが、無理が利かずリタイヤ。苦い経験から「障害がある自分を全面的に理解してくれる職場で働こう」と考えていたというのです。

 「足が不自由で設計ができる」彼は、スワニーにとってまたとない人材でした。彼は「障害を持たない設計者の商品や施設は、ムリ、ムダ、ムラが多い」と常に感じていたといいます。そこで「健常者に気づかない不便の解消に自分の経験が活かせる」と思い入社を決意したといいます。あたかも神様に引き寄せられた如く、Bさんを迎えることとなったのです。その後、現在に至るまでBさんは「障害者に愛されるモノは、健常者にも喜ばれる」と信じ、強くて軽いスワニーバッグの開発に力を尽くしてくれています。

 2002年には顧客で小売店の店主から「機能は抜群ですがデザインが今一つですね。男性ばかりで企画していないでしょうね」との質問いただきました。購入者は女性が多いのだから、女性目線でデザインするほうがいいのではないかとの問いに、みるみる私の顔は赤くなりました。それまでは私を中心に男ばかりがデザインしていたのです。

 そこで、急いで女性スタッフを増やすことにしました。そんな折、総務のWさんから「バッグ事業部で働きたい」との要望がありました。彼女の母親は障害者で、自身のお子さんを重い病気で亡くされていました。そんな経験から「ユニバーサルデザイン」の商品開発に手をあげてくれたのです。現在、Wさんは企画スタッフのひとりとして、東京の展示会で顧客のニーズに耳を傾け、中国工場にそれらの情報を伝える、とまさに東奔西走の毎日を過ごしています。「外出できなかった方が少しずつ歩けだし、それが百歩となり、ついに海外旅行ができるようになる。そんな『ライフスタイルを支える商品づくり』にこだわっていると彼女はいいます。スワニーバッグを「新車」とか「ポチ」と呼ぶお客さまの存在が嬉しいといい、単なる「キャリーバッグ」ではなく「人生を支える、かけがえのない生活の必需品になれば」と熱意をもって前進しています。

 また、スワニーでは、真のお客さま満足を追求するために、「修理とサービス」に力をいれています。全国から送られてきた修理品については、本社の3人の技術者が数日以内に、把手の修理、車輪の交換、アルミパイプを連結するピンの交換などに対応。修理期間は輸送を含めて1週間以内で、これはバッグ業界においては異例の速さです。それは、社員一人ひとりに「スワニーバッグ」が単なるキャスターバッグではないという意識があるからこそ。電話サービスでは、ご要望を受けた担当がその場ですべてを解決します。

 ある日、東京から手土産を持って来社されたお客さまがいらっしゃいました。私がお目にかかると「サービス部門のHさんにお礼に参りました」とおっしゃり「真心のサービスを続ける会社を一目見たかった」と来社の目的を教えてくださいました。私どもに修理に出したバッグの中にペンを入れたままにしていた、返送されたバッグの中に丁寧な手紙と一緒に古い自分のペンが入っていた。そのことに、感動されたとのことでした。

 スワニー本社の社員だけでなく、スワニーを取り扱っていただいているお店の方にも、支えられていると痛感することが多くあります。九州の天神地下街にとあるお店には、スワニーバッグを日本一販売している専門店があり、月100本ほど販売し同僚から“スワニーK”と呼ばれている女性がいらっしゃいます。Kさんはスワニーバッグに出会う以前は、強くお客さまにオススメしたいという気持ちが持てずに接客していたといいます。ところが毎日の通勤や買い物にスワニーバッグを使うことで疲れや肩こりから改善されたことで商品のよさを実感。その実体験をお客さまに心から伝えることで次々とスワニーバッグが売れるように。今では「スワニーに出会って人生が変わった」と話してくださいます。

 また別のお店では、販売されたバッグの修理依頼があり「一週間」と回答すると「困ります。私の足みたいなもので、スワニーがないとどこにも行けません」と緊急性を訴えられたことがありました。そのお客さまは店の販売品を代わりに持って帰ろうとされたそうで、お店のほうから緊急に本社へ一報をいただいたのです。その時には「即座の修理」をお約束してことなきをえましたが、それ以来、そのお店では、貸し出し用の「中古フレーム」置くようにして真のサービスを心がけてくださっています。

「私を支えてくれる『新車』を、とても頼りにしています。段差では私が一寸助けてあげ、あとはずっとスワニーに助けられています」(藤沢市・A様)

「スワニーは私にとって無くてはならない『親友』です。死ぬまで一緒!!に使わせて頂きます。一つ希望させて頂きますと、雨用カバーが付いてないのが残念です」(大阪府・N様)

「健常者が設計した他社のハンドルは流線型でスマートですが、スワニーよりも2倍も3倍も手のひらが痛くなります」(四条畷市・T様)

「障害をもった友人から、スワニーバッグがないと生活できませんと聞き、自分の鞄を捨てて、スワニーにして今その良さが分かりました」(西淀川市・K様)

「間欠破行者の通院に最適で、患者仲間に実演して見せてあげています。大変に喜ばれ、友人にもスワニーバッグを買ってもらっています」(大田区・Y様)


次々届く課題を次の挑戦につなげる

 おかげさまで「スワニーバッグ」は、2013年度には約十一万個出荷させていただくまでになりました。

 毎年6千通も届くアンケート葉書では、その多くがお褒めの言葉であり、お礼の言葉をいただくことも多いという有難い状況です。

 一方で、厳しい意見もいただくことで改良につなげられています。自在にクルクルと回るキャスターは、「走りすぎです。ブレーキが要ります」といわれることもあり、そこから四輪と二輪にブレーキがかかる仕様が生まれました。

 電車内などでブレーキを効かすには、実験では四輪を完全に停止させることが必要となります。しかし自在キャスターの四輪を同時に止めるには、ノーベル賞もののむずかしい技術が必要です。しかし、ふとした転機と社員の努力によって、2個が留まるバッグと、4個にブレーキがかかる技術が開発できました。ただ、レバーが鞄の上部にあるために、腰をかがめないと操作できません。ハンドルを握りつつ操作できることがベストであるものの、自在キャスターであるがため、いくつもの課題をクリアする必要があります。とはいえ、できないもの、ないものをカタチにしてきたのが「スワニーバッグ」。ハンドルを握って作動できるブレーキを目指して、総力を結集して挑戦し続けます。

 ブレーキの次に「車輪を大きくしてほしい」とのご要望も多く、10年がかりで40㎜、45㎜、そして60㎜を開発してまいりました。さらに「もっと大きく」とのご要望にお応えし、ついに75㎜のキャスターが付いたスワニーバッグを2013年度に発売できました。75㎜への交換要望が急増したことから、大きな反響を実感するとともに、機種によっては交換できないことを心苦しく感じます。

 スワニーバッグは、空港内、また飛行機の中でもお客さまを支え続けるために機内サイズであることが必須です。方向転換する時に自在キャスターが回転すると、車輪と車輪がぶつかるために75㎜というサイズは限界に近いのです。設計上は100㎜も不可能ではないのですが、バッグ幅が広くなる分、狭い路地や電車内などで体を支えるのには向かなくなり、悩ましいところです。しかし、大きなキャスターを、という声に最大限応えられるよう尽力するのみです。

「クルクルと回って、信じられないほど楽チンカバンです。しかし、車輪が小さくて凸凹道で苦労を強いられています」(和歌山市・H様)

「今までに45㎜を5台、60㎜を4台使い、今回の75㎜で歩道も楽に歩けるようになりました。90㎜だともっと楽になるでしょう」(箕面市・K様)

「オンダ(品名)の上部の納まりが綺麗になりません。側面と同様に同じ素材で、上部に雨が溜まらない構造にしてほしいです」(横浜市・M様)

「娘からプレゼントされとても嬉しいですが、盲人ブロックに引っかかって難儀しています。いい方法は無いものでしょうか?」(京都市・K様)

「信頼できるメーカーだと聞き購入しましたが、ハンドルの遊びがあり過ぎて、よく揺れるので心配しています。改善の道はないのでしょうか?」(大阪市・M様)


世界へ。そして未来へ

 2012年の春ごろ、シンガポールの老舗百貨店の女性オーナーから商品の引き合いがありました。お話を伺ってみると、彼女が訪日した際にスワニーバッグを買って自分で使用し商品に惚れ込んだということでした。「シンガポールの自分のお店でぜひスワニーバッグを販売したい」という彼女の熱意をきっかけに取引が始まりました。日本から小口荷物で商品を送ると、運賃や輸入関税などのコストがかさみ、小売価格は日本の1.5倍にもなってしまうため、本当に売れるかどうか当初は半信半疑でした。

 しかし、1.5倍の小売価格、わずか2坪ほどの売場にもかかわらず、スワニーバッグが売れ始めたではありませんか。オーナーの肝いりで仕入れた商品ということもありますが、シンガポールの高齢の富裕層に受け入れられたのです。今では、毎月平均約50本と日本の繁盛店と遜色ない売上があがっています。その売場のバイヤーにお話を聞いてみると、「体を支えて楽に移動できるという機能が評価されている」「日本企画で斬新なデザインが気に入られている」ということでした。シンガポールという土地柄、マレーシアやインドネシアなどの近隣の外国人によるまとめ買いも多いということでした。

 このシンガポールの成功事例をもとに、香港や台湾、中国大陸に販路を広げるべく、2013年から専任の担当者を中国に配して、大中華圏(グレーター・チャイナ)販売構想を推し進めています。日本と同じくこれらの国々も毎年高齢化が進んでおり、スワニーバッグを必要とするお客さまは、国境を超えて必ず存在すると確信しています。実際、香港の高級スーパーの雑貨売場や上海の日系百貨店などに売場が徐々に増えています。

 また、これらの国からの訪日者がスワニーバッグを買って帰ることも多くなってきました。自国に戻り、日本で購入したバッグに惚れ込んで地元の百貨店などに問い合わせる、ということも頻発するようになりました。私は、まずはアジアにスワニーバッグのよさを広めていき、それから世界へと考えています。今後10年以内に、アジア市場を日本と同じ売上規模に成長させることが当面の目標です。


さらなる分野へとあくなき挑戦は続く

 2002年、いい方の左足が少しずつ弱ってきたため地元の県立病院で診察を受けたところ「ポストポリオ症候群に罹っています。右足が使えなくなりますので、すぐに車いすに乗りなさい」と宣告され、3年ほど車いすの生活を余儀なくされました。

 自分が車いすに乗ってはじめて気づいたのですが、市販のものは大きくて机や椅子につき当たるし、タクシーのトランクにも収まらず、足置きが邪魔して洗面台や調理台に近づけません。そこで私が理想とする車いすを模索して、自ら試作を続けました。

 試行錯誤を続け3年、次項の写真のようにXパイプを湾曲させると、座席のシートを挟まなくなり、約7㎝狭く畳めることを突き止めました。

 さらに、日本製の車輪はハブ(車輪中心)にブレーキが合体しているけれど、欧州製はブレーキがハブに内蔵されている点に着目。従来の半分のサイズにならないかと欧州製ハブを毎晩ベッドで眺めつつ英文カタログを繰り返し読んでいました。ある日、欧米向けの耐加重は150㎏ですが、日本市場では100㎏でいいことに気づいたのです。そのため10㎝幅のブレーキ内臓ハブが7㎝まで縮小可能に。左右合わせて6㎝も狭くできたのです。

 座席シートを挟まないようにすることで7㎝、内蔵ハブによって6㎝。合計13㎝も横幅を狭くすることができたため、従来は畳んだ時に35㎝幅だった車いすが22㎝幅になる歴史的な改良となりました。1933年に英国のジェニーズとエヴェレストの両氏がX金具を発明し、椅子に車輪がついていた車いすを約半分に畳めるようにしました。その81年後の2014年さらに半分の体積に畳めるようになりました。「壁に突き当たったら、試作品を抱いて寝ろ」という、松下幸之助さんの教えを実行した結果です。

 描いては消し、消しては描きなおし…。半年以上かけてミリ単位で改良していき、足置きをひじかけの下に跳ね上げできるようにもしました。着脱できる足置きもありますが、横に広がるため直進するのが難しくなりますし、タクシーなどに足置きを忘れたりします。拙案はいつも本体にくっ付いていて、しかも肘掛の下に収納できるものですから、広がらず忘れる心配もありません。改良の秘訣は、とにかく図面を描くことでした。図面上で壁に突き当たれば、ベッドでひと晩寝るのです。少し間をあけると次々に閃きが起こって一歩一歩前進でき、全長を25㎝も短くすることができたのでした。

 市販品を畳んだ時の体積は約0.23㎥ですが、「スワニーミニ」はその約半分の0.11㎥。タクシーのトランクにも楽々と2台乗ります。玄関にも置きやすく、海上運賃や宅配運賃も半減します。走行時の幅も市販品より6㎝狭くなったため、大半の自動改札口が通れます。

 自身の病気というまさに怪我の巧妙が生んだ「スワニーミニ」ですが、幾多の試練を乗り越えて2014年度に販売にこぎつけました。「小回りが効き」、「調理台や洗面台に接近でき」足置きが肘下に収納できるために「リハビリを兼ねて片足ないし両足で漕げる」と好評で、「便器やベッドへの移動に重宝だ」と特に屋内での移動に評価頂いております。今後も問題が続出するでしょうが、艱難辛苦を覚悟しつつ前進したいと考えています。


あとがき 自分の発明品に支えられて

 私は1997年のスワニーバッグ発売前から、開発中のバッグに支えられて歩くようになりました。長年、不自由でない左足に負担をかけてきたため、年々左足が弱りはじめたのです。左右の2個のバッグに支えてもらい、トイレから風呂まで「試作品」と同伴です。もし、発明品がなければ独りでは外出できません。

 思えば、反対する幹部に大声を出さなかったのも、何度となくからかわれた少年期の苦しみによって、心身が鍛えられたからでしょうか。まさに、天は耐えられない荷物を与えないということです。

 祖父や母親譲りのためか手先が器用で、少年期に熱中したアマチュア無線によって機械に強くなり、幼いころから得意だった絵を描くことが、長じて設計や技術開発に活かされました。先祖や生かされた環境に感謝せずにはおれません。
逆風に立ち向かってくれた幹部と販売や企画担当、サービスなどで忍耐強くがんばってくれている社員の皆さん、何かと負担をかけ直言もしてくれた妻や、娘たちとその主人である義理の息子、また多くの友人や関連企業のオーナーさんからの助言に、衷心よりお礼を申し上げます。

 機能面では中心になって進めてきましたが、私がデザインにふれると売れなかった度々の苦い経験から、現在ではデザインについて発言しないよう注意しています。

 身障者に優しい商品は健常者にも喜ばれ、元気な方々にもご満足いただけるようになりました。お客さまからいただく「手ぶらで歩くよりも楽です」とのお声は、万人向きのユニバーサルデザインとして認められた証だと喜んでいます。引き続き、ビジネス、旅行、スケッチ用などなど、あらゆるニーズにお応えできる商品作りに全力投球いたします。

 苦しみ悩み、一時は死にたいとすら思った右足のお陰で、大勢の方々に喜んでいただけるバッグが誕生しました。これまで支えて下さった皆々様のご厚情の賜物です。
深く感謝いたします。


著者:三好鋭郎(えつお)
1939:香川県東かがわ市(旧白鳥町)に生まれる
1958:香川県立三本松高校卒業・三好繊維工業(株)入社
1964~:地球行脚により顧客開拓
1978:代表取締役社長就任
1980:米国にスワニーアメリカCorp.設立
1984:中国スワニー・長城スワニー・スワニー手袋・太倉スワニー設立
1997:「スワニーバッグ」発売
2009:代表取締役会長就任
2011:スワニーカンボジアCorp.設立
2014:「スワニーミニ」発売

発行者:(株)スワニー
〒769-2795香川県東かがわ市松原981
Tel: 0879-25-4101 Fax: 0879-25-0340
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