人生を賭けて、不可能を可能に ポーランド議会、エスペラントを学校教育に採用か?
 
(第61回関西エスペラント大会(和歌山市)2013/05/25、エスペラント普及会90周年記念(亀岡市)2013/06/03)
三好鋭郎 (欧州エスペラント連盟名誉会員、エスペラント普及会理事)

① 母の愛に支えられて

 社内報で身障者の母となった橋本さんという社員の記事「長男を抱きしめて何日も泣いた」を読みました。彼女の苦しみと私が小児麻痺に罹った当時の母の苦しみが重なり、とめどもなく涙が出てとまりませんでした。
 母は生後間もなく小児麻痺にかかった私を抱え、関西一円の病院という病院を駆け巡りました。でも橋本さんの記事を読むまで、幼少時の母の心境をそれほどまで深く感じてなかったのです。私が小学校に入ったころに母は私の病気を諦め、「おおもと」(宗教法人)の活動に没頭するようになりました。
 母は「おおもと」のエスペラント友の会の会長に就任し、資金集めに日本中を奔走しました。二世につながった活動は私の悪い右足と密接につながっています。私の病気が母をゆるぎない信仰へとみちびき、私もエスペラントを選択し人生を賭けています。英語圏に生まれた人間だけが生れながらにして特権をもつ、世界最大の人権侵害を無くするという、とてつもない不公平に立ち向かうことになったのです。

② 1995年55歳からエスペラント習得

 東京オリムピックが開催された翌年の1965年、出口京太郎大本相談役著「エスペラント国周遊記」(朝日新聞社)を読み感銘、エスペラントをものにすると誓いました。発音記号なし、簡潔な文法、例外なしのエスペラントの簡便性と公平性に心酔したのです。当時は手袋の市場開拓のために世界行脚を始めたときで、英語にとりくまざるを得ませんでした。

 30年も昼寝をして歳をとりましたので、外国の教師を招聘するしかないと考えました。英語は社員教育のためにと考え、英語とエスペラントができる教師を募集しました。ニュージーランド・エスペラント協会会長だったサットンさんが応募してきました。「旦那も一緒でいいですか」と言われ「2人でおいでください」と返事しました。さらに「猫がいるのですが」とファックスが届き、「どうぞお連れ下さい」とOKしましたが、彼女の隣人が世話をしてくれることになり、4月1日から毎日3時間の特訓が始まりました。
 2人目はベルギーの先生で、イラン・英国・オランダ・オーストラリア・インドから招聘し続けました。8人目の秘書兼先生は今回の大会に参加頂いている、アルゼンチン生まれオランダ国籍のアティリオ・オレラーナ・ロハスさんです。10ヵ国語に通じる語学の天才で、世界のエスペラント界を熟知し、パソコンもプロ級です。彼の能力が存分に活かされ私のエスペラント活動が、日々前進していますことに感謝の日々でございます。

③ 時間の選択と集中

 お客との会食は部下にまかせ、毎夜3時間「世界エスペラント協会」(UEA)発行の月刊誌「エスペラント」の知らない単語を調べ、日本語の意味を周囲に書き込みました。勿論A(アー)B(ボー)C(ツォー)の発音から始めました。半分以上は英語にとても近いのですが、4-5年は単語調べに膨大な時間を要しました。調べ終わると翌月号が届く状態でした。数回で頭に入る言葉もありましたが、何十回引いても覚えられない単語が沢山ありました。これは辞書の右下のスミにあったと思いだしても、見事に意味を忘れてしまっているのです。それでも40回50回同じ単語を引き続けますと記憶できました。しかし、高齢のために単語を覚えると文法をわすれ、文法が分ると単語を忘れるという状態が続いています。
 世界各地の世界エスペラント大会に参加していて、コングレッサ・エジーノ(大会夫人)という言葉を知りました。大会期間中に同じホテルで泊まるカップルのことです。「ハンガリーのA氏のコングレッサ・エジーノは、ポーランドのBさんだ」というような話は、一度聞けば死ぬまで忘れないのに、Sverena(スヴェレーナ):主権などは50回も辞書を引いて覚えた言葉です。
 語学は若いうちに習わないと難しいと実感しています。英語の1/3から1/5の努力で習えるでしょうが、17年間に1万5,000時間以上費やしました。

④ お金の選択と集中

 数十年前ですが黒猫ヤマトの小倉昌男社長は、日本経済新聞に全面広告を出しました。多くの日本人が制限の多い運輸行政について知り、沢山の経営者やマスコミが声援をおくりました。その結果、政府は自由化に追い込まれ、運賃は大幅に下がるとともに配達期間が半減して、日本経済は大変な競争力をつけました。私はEU諸国の新聞で全面広告をしようと決意しました。
 娘婿は父親からもらった土地を処分して、2回分の広告費として提供してくれました。私の蓄えの大部分は家内の了解を得て、広告やエスペラント活動に使ってしまっています。

⑤ 広告の選択と集中

 2006年の日本経新新聞には、堺屋太一さんのジンギス・ハンが連載されました。彼は万里の長城の警備の弱い場所を探し出し、20万の大群を一ヶ所に集結させました。3日間の突貫工事で5メートルの馬の道を開け、みるみるうちに中国を征服しました。
 2002年から、欧州エスペラント連盟(EEU)のオリアイン会長と相談しつつ、デンマーク、ベルギー、イタリアなどEU 13ヶ国で24回広告を続けてきました。ジンギス・ハンを読み、最も英語を嫌っているフランスのル・モンドに集中することにしました。世界エスペラント協会(UEA)やEEUの会長、統一フランスエスペラント(UFE)の会長さん達と交渉を続け、トンボ帰りで欧州に飛びましたが、皆さんの納得が得られませんでした。広告主を明記しないという条件で始めましたが、作者がいない小説は売れません。熱意と努力の結果3回目から私が登場できるようになりました。広告内容でも難航に難航を重ね、6年に及ぶ欧州の会長さん達やその友人とのメールは数千回に及びます。お手元(左)のレジメの裏面が縮小した広告でございます。

 2006年から4年間に10回「ル・モンド」に広告を続けました。2008年にはパリの同社に乗り込み、担当のメイツネル氏に「言語の不平等に関して記事にしてほしい」と懇願しました。広告はなかなか読んでくれませんが記事には力があるからですが「読者の反響が少ないので無理です」と断られました。
 4ヵ月後には、年末に予定していた広告への反響を集めるために、フランスの9都市で講演旅行を行いました。講演草稿の作成や練習に明け暮れましたが、結果は資料を読む講演になってしまいました。しかし、聴講者の反応は極めてよく、質問や彼等の表情から私の真意が伝わったことを実感しました。結果「言語問題を扱ってほしい」という数百の反響が、メール、手紙、ファックスで「ル・モンド」に届きました。私にもそのコピーが送られてきましたが、完全にル・モンドに無視されたままです。

 一方、広告を読んだサンターニアン・グランリュー市の市長が、私どもの運動を支援してくれるようになり、UFEのホームページには沢山の訪問者が集中しました。フランスのエスペラント活動がEUで最も活発だとUEAの役員が述べており、同国のエスペランティストから、広告を続けてほしいと求められています。イタリアでは8人の国会議員が「エスペラントをEUの共通語にしよう」とEU委員会に呼びかけてくれました。特にポーランドで成果が顕著で「百年もたって、エスペラントが世界平和の鍵を握っていることを知った」との、反響が数々届くなど各地で反響がありました。

⑥ フランスからポーランドへ

 大震災の直前に「欧州民主エスペラント」(EDE)のポーランド支部のコジラさんからメールが届きました。「貴方の欧州でのエスペラント活動が評価され、ポーランド政府が三好さんに勲章を授与するので、6月30日に来訪して頂けませんか」というのです。
 夢にも考えられない突然の朗報にびっくり仰天しました。すぐに「おおもと」の硲(はざま)先生に報告しますと「勲位」を聞かれました。何度問い合わせても「最高の位です」とだけ言ってくるのです。現地に着き「十字架の騎士」だと知りました。事前に日本政府の承認がいるという国際条約があり、外務省は地震と原発であわてふためき、香川県への問い合わせなどが遅れたことが分りました。

 2004年欧州言語の日の9月26日、ポーランドの「ゼッツポスポリータ」に出稿しました。同日「ポーランドエスペラント協会」のお世話で、ワルシャワのホテルで言語問題に関する昼食討論会を行いました。応援演説に駆けつけて頂いたのは、パリからL・ザメンホフ博士(エスペラント創始者のお孫さん)、フランクフルトからノーベル経済学賞を受賞したR・ゼルテン教授、ローマからは「世界エスペラント協会」会長だったR・コルセッティー教授でした。その会議にポーランド出身の54名のEU議員、地元の有力なエスペランティストを招待しました。来訪したのは8名の政治家と46名のエスペランティストでした。予定者の中に元外務大臣で当時EU議会のゲレメック副議長がいました。元UEAの副会長だったポーランドTVのドビィジンスキーさんから「大人物なので事前に表敬訪問をしなさい」と勧められました。UEAの役員で元ラジオ・ポーランドのピエートシャック女史が彼と交渉してくれました。

 ゲレメック副議長から、広告日の1ヶ月前の8月31日の夜なら時間が取れると言ってきました。とんぼ返りを覚悟して切符を手配し、出発直前にキャンセルされました。その後に分ったのですが「エスペラントは英語には勝てないので、遠路三好氏に来てもらうのは気の毒だ」という理由でした。
 2008年5月9日の欧州の日の「ル・モンド」の広告を、ゲレメック副議長がブリュッセルで読みました。彼はワルシャワ大学時代にエスペラント部の会長経験者で、フランスに国費留学したフランス語の権威者としても欧州で超有名人でした。再度のエスペラントの広告に目を覚まし、同7月14日に討論会「エスペラントは我々の敵か味方か」と題して、786名の全EU議員に案内状を出しました。悲運にも会場に向かう前日の道中で、自動車事故で亡くなってしまいました。彼の主張は「大部分のEU議員は英語の支配に反対しながらも、エスペラントの真の実力を認めようとせず、甚だしい誤解を持っている」で、核心を掴んでいました。我々の活動にかけがえのない巨人を失ってしまいました。この世には悪魔が存在すると思えてなりません。

 昨年の5月にはエスペラント125周年を記念し、グダンスク、ワルシャワ、ザメンホフの生誕地ビヤリストク市など8都市の11大学で講演旅行を行いました。550名近い青年たちに真剣に聞いて頂き、言語の平等性について大きい関心を示して頂きました。
 勲章のお礼のために議会を訪問し、上下両院副議長など14名と面会できました。そこで欧州言語の日の9月26日にエスペラント展示会と、エスペラント・シンポジウムを開催するよう提案して帰国しました。帰国の前日にザメンホフ博士のお墓に参拝し、彼の魂に「お力をお授けください」とお祈りしますと、涙があふれて出して止まりませんでした。
 出国前に前文部大臣で「エスペラント推進議員グループ」(Parlamenta Grupo Subtenanta Esperanton)のヴッドブロッド会長から電話があり、10月17日に下院議会で同グループの結成式と同展示会ならびにエスペラント・シンポジウムを開催するので「是非おいでください」と返事を頂きました。

 当日の午前11時には、1887年初版のエスペラント教科書など50冊の歴史的な著書、21枚の展示パネルが下院議会のホールに展示され、2週間に約2,000名が来訪しました。開会式には母親がエスペランティストのヴィロヴィンスキー上院副議長、ノウィツカ下院副議長、ヴッドブロッド会長、欧州民主エスペラントの会長などが挨拶に立ち、約100名に参集して頂けました。
 その直前に通貨が暴落したために、同日に特別国会が召集され議員さんの参加は8名に減りました。地元のエスペランティストや記者など含め約50名での開催でした。
 欧州エスペラント連盟のオリアイン会長の講演は、ポーランド人の代読によって行われ、エスペラントをEUの第2言語とし、欧州の文化遺産に登録してもらうよう、ポーランド政府の支援を要請しました。

 私は出口紅大本五代教主のお言葉を訴えました。「エスペラントは人類を永遠に幸福にします。簡単には実現しないでしょうが、諦めないで努力を続けることが大切です。世界には不可能だと思われていることが、ベルリンの壁のように突然に実現することも事実です」と。
 さらに、EUの青年70万人の英国への留学費が毎年2兆円を超えていますが、永久に彼等の英語力にはとどかないこと。ブリュッセルでの沢山の求人広告では、英語ができるのが最低条件ですが、小さい文字で「お母さんから学んだ人に限る」となっていること。もし「貴国やEUがエスペラントに目覚めたならば、貴国への投資や旅行者が増えるだけではなく、ポーランドは世界から永遠に尊敬され、人類はザメンホフの墓を巡礼するようになるでしょう」と呼びかけました。

 EDEのクリザック氏:「英国人は外国語を習わなくていいのに、EU諸国の英語教育費は年に35兆円と巨額で、GDPの3.2%に膨らんでいます。こんな不公平は許せません」と述べました。
 ビジンスキー氏の質問:1989年の自由化まで東欧諸国ではロシア語が強制されましたが、今はワルシャワには英語の看板があふれています。ポーランドは英語の植民地になってしまいました。政治家の力で何とかしてほしいと表明しました。

 イヴィンスキー上院議員の質問:英語の否定はエスペラント運動にも良い結果を生みません。どの国も国際機関もエスペラントを支持していません。数年前に中止されたエスペラント放送ラジオ・ポロニアの再開を議会に働きかけなさい。と厳しい意見が出ました。
 ヴッドブロッド会長は「EU では23ヵ国語が公用語ですが、それらの言語への通訳や翻訳費が全管理費の1/3をしめており、経済的理由でいずれこのシステムは終焉するでしょう」と締めくくりました。

⑦ ウェルチの伝える技術

 1981年、GE(ゼネラル・エレクトリック)社の社長に就任したウェルチ氏から学んだことです。彼は口頭と文章による伝える技術を経営の中心にすえました。イエスかノーを決める製品開発会議で、各社の社長に与えた説明時間は10分です。12分も13分も話した子会社の社長は、自家用ジェット機で飛び回り約1/3にあたる百人を首にしました。
 「どんな重要なことでも10分で説得できる」といい「いい話だった。でも短すぎたよ。もっと聞きたかった」と言われば成功だといいます。時間をかけて「文章化」し、構成内容を磨きあげ、4回、5回、6回と削る作業が不可欠だと説いています。「項目から項目のつなぎは全く不要」「くどく退屈な部分は凡て排除せよ」「とにかくそぎ落としに徹せよ」「槍のような研いだ言葉を打ちこめ」「何を、何時、どのように実施するか」「冗談を含め、悲しみや、苦しみを伝えよ」や「勝つか負けるかは最初の1分で決まる」といいます。社長が目を覚まさないと冗長な会議や長文が常態化し、広告なども力のないものになるからです。ウェルチ氏は伝える技術を徹底的に磨き上げ、20年間で株価を40倍にしました。

 昨秋の議会でのシンポジウムはポーランド語で行われ、私に与えられたのは20分間でした。私のみエスペラントからポーランド語への通訳が必要だったために、削りに削って10分に縮めました。百日間に千回大声で喋り続けて練習を積みました。私の話が終わるとヴッドブロッド会長から「エクサレント」と言われ、硬い握手をしてくれました。
 展示会での21枚のパネルは、1分で読める大きい文字と簡潔な文章をめざしました。主催者と衝突を繰り返し大変な難産でした。先ず写真の説明案をエスペラントでメールしました。翌日にはあれもこれもと追加されて、長文になって帰ってくるのです。「20分以内に全パネルが読めないとだめだ」と頑張ってそぎ落としました。また、あれこれと追加されてきました。アティリオさんが多少ポーランド語が読めるために、私達の意志を貫き通すことができました。今日までに8都市で同展示会が続き今後も継続されます。1ヶ月もの難産で誕生したパネルは写真のとおりです。

⑧ 前進と反省

 私はアティリオリオさんの強いすすめで、3年前からエスペラント、英語、フランス語の3ヵ国語で、フェイスブックで毎日発信しています。言語問題への覚醒を訴求し続けていいます。エスペラントの頁は2千人以上の友人ができ活発ですが、フランス語や英語の頁は期待どおりの反響が出ていません。そこで、昨年の12月からフランス語版をポーランド語に変え、アティリオさんの友人に毎日翻訳してもらっています。
 ポーランド語版は、エスペラント、ポーランドとEUの旗をバックにした私の写真を載せました。さらに私が払う広告費は毎日600円です。想像を絶する成果がでて、私のフェイスブックを訪れたポーランド人はたった半年後の今朝には7,123,454人となりました。数十ヶ国語でエスペラントが学べる「クルソ・デ・エスペラント」に訪れたポーランド人は17,249,294人です。昔ロシア語を強制されてきた東欧諸国からEUに拡大できるならば、フェイスブックは救世主になるかも知れません。

 1月にはヴッドブロッド会長やEDEの役員との会合にアティリオさんを派遣し、5月8日に第2回シンポジウム開催が決りましたが、グダンスク空港の風雪で12時間も遅れて帰国できました。
 昨秋のシンポジウムでは4-5名の記者しか来てくれませんでしたので、再び4月にワルシャワに飛んでもらいました。40社のTV局や新聞社を訪れましたが、面会できたのはたったの3社でした。テロを恐れて知人以外は建物に入れなかったのです。彼は玄関から記者に電話をいれて目的を説明し、第2回シンポジウムの案内をし続けました。案内状やDVD日本の春大本2009(ポ語版)は現地で郵送してもらいました。一見では失敗したようにも見えますが、各記者はアティリオさんの努力を知っており、延期された10月のシンポジウムで成果につながると見ています。しかし、旅は憂いもの辛いもので、関空への便が2度も欠航され、バンコク経由で2日遅れて帰ってきました。

 エスペラント運動には巨大な壁がそびえ立っています。EUの故ゲレメック副議長は英語の支配に挫折しかかったし、悪魔に彼の存在まで否定されてしまいした。全身全霊で第2回シンポジウムに賭けてきましたが、議会にも賛否両論がありそうで、ついに延期されてしまいました。幸いにヴィッドブロッド会長がこの10月に開催できるよう、2009年から2012年までEU議会の議長だった友人のジェジー・ブゼック氏や、ポーランドの文部大臣に呼びかけてくれています。エスペラントを学校教育に取り入れてもらうのが目標で、間もなく開催日が決まる予定でございます。

 ある日、孫の彩織(さおり)がやってきて「おじいちゃん、英語の名前をサーリーにしたよ」というのです。「彩織ちゃんはいい名前じゃないか、誰がそんな名前をつけたの」と聞きました。彼女は「エスペラントの先生です」と答えました。翌朝「なぜ孫に英語名をつけたのですか」と英語国の先生と交渉しました。「美しくて、呼びやすく、覚えやすいでしよう。多くのアジア人がそうしていますよ」と、30分交渉しても納得しませんでした。一晩寝て考え「今日からあなたの日本名は正美さんです。そう呼ばせてもらってもいいですね?と念を押しました。「うーん」とうなって暫く考えたあげく「分かりました。私の間違いでした」と謝ってくれました。世界の英語化は支配民族と被支配民族を生みます。みなさんはそんな世界が続くことをお望みでしょうか?

 私の座右の書は、大本の三代教主補だった出口日出麿師著の『いきがいの探求』(講談社)です。数百回読ませて頂いていますので、記憶している文章が随所にあります。師ご自身が繰り返し自省しておられることは「反省することほど大切なことはない」ということです。
 「反省することは真に知る唯一の手段である。内に省み外に省み、ここにはじめて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。永久に同一世界にうごめいているだけである」とあります。
 正直、日出麿先生のご著書を拝読しているときだけ、日々の自分というものを反省することができます。しかし、何回も何回も懲りずに同じ失敗を繰り返していることに気づくのです。
 何年か前、親友から私への遺言のように忠告されました。「自己宣伝をしない!言い訳をしない!自意識過剰という癖を少しずつ直してください!三好さんは簡単に反省されますが、表面だけで根本からのものではありません。真に三好さんがおっしゃるように行動してきたならば、韓国撤退劇などの災いは起こらなかったはずです。」という厳しいものでした。その忠告に心の中で反論し悩んできましたが、私の心の底への直言だと思えるようになりました。そして、一歩ずつ自己というものを深く知り、不可能に近いほど至難ではありまが、少しでも自己改革ができればと思っています。

 一昨年フランスで講演中に、寒さ、時差、緊張などから、息が苦しくなり呼吸困難に陥りました。「呼吸が苦しくなったので帰国する」と家内に電話を入れました。彼女は「エスペラント運動はあなたの命より大切でしょう。そのまま続けなさい」言うのです。夫婦でも電話だけでは理解できないことを体験しました。関空に着いたときには見動きもできなくなっていました。
 私は今ポストポリオ症候群という病と戦っています。手足の筋力が少しずつ弱りつつあり、両手親指の先がしびれはじめています。小児麻痺に罹った人が歳をとり起こる症状で、呼吸困難もその一つだそうです。最近分ってきて判別しにくいのが特徴で、安静にしていると良くなるとも言われ、強弱を含めると全国で約4万人超の方々が罹っています。専門医の指示に従って無理をしない生活を心がけ、歩行や全身運動を毎日1時間は続けつつ、健康を選択し集中させていただいております。

 神前では「日々の活動中に人さまの心に傷をつけ、つい自慢してしまう始末の悪い自分を、お守り頂き誠にありがとうございます」と、反省と感謝を述べます。「ポストポリオ症候群のために体が弱りつつあります。もし、私に神さまのご用が残っているならば、人生の最後までご用にお使いください。どうか宜しくお願いいたします」というのが私の朝夕の祈りでございます。ご清聴誠にありがとうございました。